例によって上の広告は上巻しかなかったので、ごめんなさい。さてとうとう下巻を読破いたしました。感想的には大きく変わってないと思いますが(上巻のメモ、中巻のメモ)、思いつくままにメモります。
内容的には上、中と同じようなもの。てか、訳者によるとこの下巻はどちらかというとマホメットのメッカ時代、つまり啓示が下された初期が主であるとしています。コーランの編集がどうしてそうなっているかはよくわからないのですが、その特徴として、章の初めに短文の誓言が羅列されていることをあげています。
そんなことは正直アレなんですが、とりあえず思ったことをツラツラと書かせてください。
上、中、下とけっこうなボリュームになるコーランですが、基本的に同じ話が何度も何度も繰り返されている印象です。たとえば前述のマホメットのこと、他によく出てくるのがノア(洪水の人ね)、モーセ(海を割った人)、それにアブラハム(よく知らないが、エジプト王のロトのハナシに出てくる)といった今までの使徒たちのハナシ。もう何度と数えるのもアレなくらい、執拗に登場します。
それとサタンね、堕天使の。そうそう大天使ガブリエルも出てきます。ジブリールがガブリエルの読みを変えたものだと初めて知りました。前にも書きましたが、肝心要のキリストの出番はそれほど多くなく、しかもまるで掘り下げておりません。なぜ?。
前の感想で書いたのですが、善行を進めるのは良いとしても、なぜ自分だけを崇めろとアッラーは仰るのでしょうか?。その疑問の答えがこの下巻にサラッと書いてありました。51章56節です。「わしが妖霊(ジン)や人間を創ったのは、わしにかしずかせようがため」。そうですか、かしずいてもらいたいから天と地と山や川、その他もろもろの環境を6日間で創造し、その上で人間を創ったのだと。
まあこれじゃあまりにもアレなんで、その後に続く文言が「(その人間にわしが)養ってもらうためじゃない、わしが養い手なのだ」とあります。全知全能の唯物神、人間に供物など望んでおらぬ、すべてを創り与えるのは唯一わしだけなのだ、という脈絡です。それでもかしずいて欲しいんですよね、きっと。
あと、アッラーは信徒に善行するよう強く望んでいるのですが、次の一文「アッラーのお恵み欲しさに善行を重ねるものは、まことの誠実な人間である」とあります。そう、善行の根拠が審判の日に天国へと誘われ、そこで永遠とわにわたって何不自由なく暮らせるという懸賞なのです。なんかすごく現実的ですよね、アッラー様。
そうそう、マホメットがハレムに住んでいたという記述あり。ハレムってあのハーレムでしょうか?。この辺、コーランを読むだけで何一つググってないので、こういう疑問がいろいろ頭の中に湧いています。ググるのはあとのお楽しみ。
というわけで、このコーラン自体は読みやすい口語訳されておりますので、決して読むのに苦労するわけではないのですが、でもやはり苦労する。なんでだろ?。三巻読み終えた達成感は半端なし、です。
下巻の後記。これが面白い。訳者の井筒俊彦さん、文章がとても軽快で読みやすく、とても1950年代に書かれたものとは思えません。逆にこの人の他の書物が読みたくなったくらい。閑話休題。なぜここでやたら聖戦のハナシが出ていた等のその理由がわかりやすく解説されております。この後記を読んでいると、コーランの主役はアッラーではなく、マホメットだよ普通にね、みたいなバイアスがちゃんとかかっている気がして、なぜコーランを多くの人々が信じ崇めているのか?というわたしの最大の疑問が、軽やかにいなされちゃっているようで、ホッとしたような、それでいいの?的な気持ちが交錯した次第。
わたし個人的にはけっして手を出すことはなかったと思われるコーラン。思わぬ経緯で読むこととなりましたが、人生で一度はこういった歴史的、宗教的な書物を読むことって、いいもんだなあ~と。ただし、訳者も当然のように書いてますが、これはコーランのごく一面を表したもので、原文のアラビア語のその荘厳な味わいは決して触れられないと。そこは了承したうえで読んでみてください。おススメです。