上の紹介、上巻しかなかったので、ごめんなさ、今回は中巻です。前回(メモ)の予告通り、無事中巻と下巻を借りることができたので、かつ、中巻を読み終えたのでご報告。
感想の内容は前回の続きのようなもの。宗教関係にまったく詳しくないわたしが、いきなり回教の聖典であるコーランに触れたわけですが、何も知らなかったゆえにいろいろと興味が湧いてきて、宗教界では常識のようなことも新鮮な知識として受け入れられる。という前提でお願いします。
中巻まで読み進めて新たにわかったこと。そうか、回教には輪廻転生がないんだなってこと。何度も何度もでてくる審判の日。まずこの日はまだ訪れていません(そこからかw)。えっとコーランの啓示があったのが西暦600年代ですよね?。そこから1,400年もの月日が経ってますが、まだ審判の日は訪れてない。だってわたしがこうして今を生きているわけですから。
アッラーが大地を作り、大空を作り、人間を作ってからこの方、生まれて死んでいった人たちはすべてそのままです。そのままってなんや?。つまり死んだまま。誰も生まれ変わってなんかいない。死んだら死んだまま。
そして審判の日。今生きてる人はもちろん、今まで死んだ数多くの人々すべてが蘇り、アッラーの前に連れていかれる。そしてエデンの園で楽しく暮らすか、ゲヘナの業火に焼かれ続けるかを振り分けられる。どちらに行ってもそれは永遠に続く。
これが回教の教え。これを知っただけでもわたしの知識欲は大いに満足させられました。だって、他の人に回教ってこうなんだよ、って説明できるのだから。
ハナシが長くなるので、新たな発見シリーズ続けます。コーランの啓示を受けたモハマドって人。ただの宗教家みたいな感じで生きていたのかと思ったら、サラセン帝国の政治的な主導者になったエライ人だったのですね~。どうりで法律に詳しいわけだ、って言っちゃいけないんですよ、すべてはアッラーの御言葉ですから。
妻を大事にしろとか、奴隷に手を出してはいけないとか、貧しい人に施しをしろとか、あの時代って言い方も変だけど、ずいぶんと人権についてやさしい考えだったこと。でもね、やはり絶対的な差別はあって、女の子の赤ちゃんが生まれると、その父親はだれもががっかりする、と平気で書かれています。
不思議なのはノアやモーゼについては何度も名前が出てきて、詳しく書かれているのですが、肝心のキリストに対する記述が極端に少ない。中巻でやっとごにょごにょと書かれているくらい。要はキリストはアッラーの息子(つまり神の子)ではなく、ただの人間、使徒であると。アッラーは唯一絶対の神ですから。
あの時代(西暦600年代?)でも、キリストってけっこうな重要的存在だと思うのですが、なぜ彼のことをコーランは避けているのか?。なんか納得できません。
そうそう、ユダヤ教とキリスト教みたいによくこの二つの宗派は書かれているけれども、ユダヤ教ってなんの神を信じているんでしょうか?。そんなことすら知らないわたし。ググればすぐにわかるのだけれど、それは後のお楽しみにとってあります。
そろそろ本題。宗教ってなんなんでしょうね~。おそらく多くの宗教では、善い行いをしなさいとか、得を積むことが大事とか、みんな仲良くしましょうね的なことが決まりとして定められていると思うのですよ。
でもね、回教を例にとると、いくらアッラーの勧める善行だけを考えて実行し、生きている人がいてもですよ、アッラーを崇めないかぎり地獄に落ちるのです。
他の宗教についても想像することしかできないのですが、その宗教の神を崇めなさいときっと言っていると思います。でもね、だれを崇めようが善行をなしていればそれでいいじゃないかと、わたし個人としては思うわけです。
どの神を崇めるか?、それだけで宗派が存在し、果ては宗教戦争すらあったわけでしょ?。民族の対立も宗教に依存することが多いと想像します。
あくまでもわたし個人の宗教観、というかそもそも無宗教なんですが、みんなが仲良く、楽しく、幸せに生きられれば。その指標に間違いがなければ、崇める神がだれなんだ?とか関係ないと思ってしまうのです。
こういう書き方をすると不快に思われる方たちもいるかと思われますが、わたしだけの個人的な考え方なので、そこは大目にみてやってください。
というわけで、中巻を読んでいるときにふと考えたことが、今回のお題の、宗教ってなんなんだろ?、ってことでした。ちなみに昔学生の頃に観た映画「Oh!ゴッド」って題名だったかな?、ジョン・デンバーが使徒の役割を担ったヤツ。あの映画に出てくる神様が、わたしは好きです。